2010年2月5日金曜日

作並氏についてちょっとだけ調査。

なんらかの拍子に、自分の苗字である、
「作並」を発見。ちょっと調べてみましたのでコピペ。

儀山政宗の墓 明治21年に伊達家の家職作並清亮氏が公墓調査をするまではその存在すらわからなかったが、応永12年9月の湯の原口の戦いで倒れたとの当時の記録から、高畠城付近を調査、ついに野手倉はずれの山すそに五輪2基を発見。 九代政宗(法名は東光寺殿儀山円孝大居士)と、その室、紀氏(輪王寺殿蘭庭明玉尼大姉)の墓であることが判明した。 明治37年9月、伊達家は再び仙台より作並氏を派遣し五百年祭を執行、新たに墓標2基を建て、永く公を弔う。

…ふむふむ('∇')

これ、独眼流政宗公の事ではなく、1380年のころの伊達家当主ですね。

次に、大原館(おおはらだて)の説明が。

築城年代、築城者は明確でなく、国分氏家臣作並宮内が天正年間(1573-92)初めに居住したという。作並氏は藩政時代には伊達氏家臣となるが、天正年間後期には既に従っていたと見られ、作並新左衛門尉が天正十六年(1588)に敵方の首級3を伊達政宗に献上し腰物を拝領した、また翌年正月に政宗へ年賀献上を行ったなどの記録が残る。また『仙台藩家臣録』に見られる延宝五年(1677)に記された作並九郎兵衛の由緒書上に、祖父の兵衛が国分譜代であることが記されている。

大原館の城主だったらしいですね~作並氏は。

なんか、今の自分からするとピンときませんが、
自分のルーツ、名前の由来を調べるって面白いですね。

ちなみに、作並というと、温泉で有名だそうで。
僕は行ったこともありません(;´ρ`)

江戸時代の仙代庵という人が書いた回文があります。
今日は、これで〆ます。

みな草の 名は百としれ 薬りなり
すくれしとくは 花のさくなみ
(草は百種類もあるだろうか、みな薬である。
その優れた効き目は、花の咲き乱れる作並のようだ)

ご先祖様、ご立派だったのですね(´;ω;`)
がんばります。

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